予防原則について申しておく。 予防原則自体は物事の決定方法であり、この決定や判断のための材料を我々は議論するのである。 書いていないからそうしてはいけないという解釈は法理論的に間違っていはしないか。 法律や規則に書いてないことはたくさんあり、それはいつでも議論の対象なのである。 すなわち、だれが従来技術と比較してはいけないと決めるのかということである。 決めたからといえばこれは独裁である。 予防原則自体、従来の意思決定法”より”よりよく現代的危険から守ることができるという比較論的民主的議論によって、食品ではフランスが導入を会議の場ではかったのではなかったか。 ヒトラーはなんでもありの”全権委任法”を合法的に議会で可決し独裁政権を作り上げたが、ヒトラーとて国民にはより幸福になれると訴えたのである。 そのプロセスと同様の恐れを感じる。  

  新技術を評価するとき、従来と比較しないことなんてあるのだろうか。 新技術を作る意図は従来よりよくなることを目途としているのではないのか。 前より悪く、かつ危険であるものをわざわざ開発目的に掲げるだろうか。 安全性についてはすべてのものについて危険がないという”ないこと”は証明できないのはみなさんがおっしゃるとおりであり、結局は危険の程度の大きさの評価と比較にならざるおえない。 すなわち、その出来具合を従来と比較するのは当たり前の常識であることは論をまたない。

  ご指摘のように今我々は遺伝子の知識と構造や機能を探求しつつあり、知れば知るほど多くの疑問が湧いてくる。 全く同感である。 そしてその同じ観察眼を伝統育種にもむけてほしいのである。 そうするといかに我々は”ただいいもの”が増えるからと何も知らずに育種をしてきたあるいは生物を扱ってきたということが分かるだろう。 交差とは、異数体とは、倍数体とは、複二倍体とは、突然変異とはなどなど遺伝子にきざまれたその傷や痕跡をみるにつけ、ただ我々の無知を嘆くのみである。 これらは伝統育種の前提であり肉眼的現象に名前をつけただけである。

  現在までに800種にも上る侵入植物が記録され(その半数近くが帰化している)事実をご存知だろうか。さらに毎年数多くの、雑草はじめ新品種が農作物として園芸用として流入し、GMOの環境拡散の不安をうったえながら花をつくるそのあなたの庭先から今日も環境へ逸出しているかもしれないのである。 セイタカアワダチソウは切花など観賞用に明治年間に導入され、次第に帰化して現在の繁茂となったのである。 帰化植物はしかもあるときから増え出すことが多く、他種との交配や遺伝子の変異などによる環境適応を起こしている疑いもある。 それに農園芸作物の品種改良自体、伝統法であってもあらたな遺伝子の探索と創造、導入である。 新しい品種ということは遺伝子が変わったことにほかならない。 これらの生物の進化に対するインパクトは甚大なものがある。 生物として問題なのは個々の遺伝子ではない。 全体的な性質であるからして、GMOかどうかは本質的に関係がない。 

 現在の反HMO議論はバランスを欠いており、その展開のなかでの精密さでもって考え、一方で伝統を絶対安全だすると、いかに我々がしていることに対して無知であり、物事の座標が著しく歪むということをである。同じ見方で伝統を眺めるとやはり、等しく危険であるといわざるおえない。 伝統や自然(野生)が安全だと、主張するのはGMOが無審査で安全というのと同じぐらい危険であり、それは意図的かどうかはわからないが、何が起こっているかをただ知らないという無知も基づくものであるといっていいだろう。 

  伝統的育種と農法を無審査に続けることは等しくきけんであるということである。 有機無農薬も近代的実証においてその歴史は浅い。 すなわち、現在の伝統育種と近代農業の歴史の約100年間に今言われているような意味での食は勿論環境への安全性というものにどれほどの憧憬があったであろうか。 また、人間が何千年の歴史のなかで森林を切り倒し、田畑を造成し自然を改造してきて、現在の田園風景をみて自然だと思(これらは人間の自然の営みであるが)いがちだという独善がある。 日本の本来の自然は神社の森のような森林である。 それらを犠牲にして営んできた農業の産物をもっと感謝をもっていただくべきであろう。 もう一度、新しい世紀にむけて、われわれが自然、そして遺伝子に対してしてきたことを等しく厳しく眺めなおすことが必要である。

    GMOの影響を科学的に調査したいならば、当然混在する他の要因も調べなければならないのは当然である。 そのために、既存のリスクを同じ精密さで調査検討しリストアップするのは当たり前である。 たとえば、最近おこったミルク中毒事件でパックにただ遺伝子組換え飼料使用と書いてあったらその一義的原因をそれに帰することを主張するようなものである。 見る側の見識を前提として表示は始めて有効なのであり、私は、無知による危険性を憂えているのである。 同様の誤りはセイタカアワダチソウ花粉症説である。 他をきちっと調べないで結論をだせるというのだろうか。 

  GMOのリスクを排除すれば確かにGMOのリスクで滅びることはないであろうかわりに、他のリスクでより早くほろびることのないようにしなくてはならない。 今日を憂いて明日に死すことのなきよう、物事を同様の精密さと見識で眺め冷静に判断していくことが、いま求められているのではないだろうか。

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